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白鳳年中役小角朝日嶽を開闢し朝日山大権現と唱号しました。天安年中文徳天皇の叡聴に達し叡感有って鎮護の霊場たる可しとの詔勅を賜りました。
天喜年中奥羽の兵乱に御山も衰微しましたが、寛治4年、源義家が当麻秀則に命じ、祭地を青木野に換え、朝日岳、岩上岳、小朝日、月ヶ峯、三淵の五カ所の尊霊を遷座合祭したと伝えられています。それ以来、五所大明神と唱え、地名も五祭所と改め、一郷の産土神として信仰されてきました。
明治5年に村社に列しました。大正2年以後、山、三淵、八幡、大沢、熊野の五神社を合併しました。同14年2月20日、神饌幣白料供進神社に指定されました。


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津嶋神社は、祇園牛頭天王宝宮として、ご祭神素戔嗚尊を祀り、歓喜院に創建されましたが、文化年中別当歓喜院の炎により、古文書類は焼失し、創建はさだかでありませんが、正平13年7月(1358)に創建されたと後日の記録にあります。
この神社は京都祇園八坂神社(当時社号は、祇園社あるいは祇園感神院)から分霊されたことが八坂神社より認められています。
歓喜院より、草岡村のほぼ中心地の現在地に祇園牛頭天王宝宮一宇として遷宮されました。(歓喜院に棟札現存)
慶応4年3月28日(1868)太政官達(国の最高機関)により神佛判然令が出ました。明治元年祭政一致の布告があり、神佛分離令が公布され、今まで深く結びついていた神道と佛教を引き離す一大変革の政策がとられ、これまで、祇園様として長く信仰されてきましたが、以来津嶋神社と改めたものと推測されます。
明治3年津嶋神社村社となりました。
鳥居に掲げている額「祇園宮」は延享2年夏(1745)に寄進掲額されたものです。
境内には、皇太神宮と才神堂の二つのお宮が祀られており、又華庚申塔2基。宥日上人御筆の愛梁明王碑。湯殿山碑。己持講碑。子持講碑。大神宮碑などが建立されています。


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大正12年に建てられた合祀記念碑によりますと、明治44年に川原沢内の蛇附、巨四王、諏訪、熊野、皇大山、稲荷神社を合祀しています。
この中で、巨四王権現と蛇附明神の創建は古く、巨四王神社は文安2年5月創建と伝えられていますが由緒は詳らかではありません。
神官は代々工藤家、神保家が勤めてきました。また、この年に境内を拡張して神殿、拝殿、神庫、社務所を建て、鳥居を建立し社道を開きました。
合祀前の明治3年に村社となり、大正7年神饌幣白料供進神社に指定されました。


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ご祭神・例祭・ご由緒 不詳


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昔は稲荷大明神と呼ばれておりましたが、明治3年稲荷神社と改名。明治40年、白山神社を合祀しました。
明治34年今泉大火で全焼、同39年再建、大正5年本殿再建によって中断されていた祭りの獅子舞が再び行なわれ現在に受け継がれています。
昔は、4月の土用祭りは、その年の豊作を祈って盛大に行われましたが、近年は次第に簡素化され、8月のお祭は、盆休みとかさなる為、盛大に催されるようになりました。
昔の神幸は、高張提灯、神輿、四神奴、五色旗、大鳥毛、笛、太鼓で大名行列をおもわせるようでした。神輿は、白鳥烏帽子姿の人がかつぎ、子供達も旗や提灯等を手にもって地域ぐるみのにぎわいでしたが、近年子供の参加は出来なくなりました。


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元禄4年(1691)京都若宮八幡神社の分霊をまつりました。
大正15年(1926)一ノ宮神社を合併しました。
この地の獅子舞は経験豊かな人が多く笛や太鼓も若衆からお年寄りまで、腕自慢が飛び入りで参加するなど、地区あげての家族的なものです。
また、代々この地に伝えられ、現在一時とだえている「河井の獅子踊り」も、この神社の境内で奉納されていました。